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彼はそう云いながら、
泥の上にベタベタとついた足跡を指さした。 「おい、――ちょっと待て、――その籔かげに居るのは誰だ?」 そこに居たのは十七才くらいの、革のズボンをはいて、ゲートルをかけた、馬丁風の若者であった。そしてその者は、膝を縛り上げられて、仰向けに寝かされて、その上に額をひどく割られて、気絶して倒れていた。しかし生きてはいたが、私はちょっと見たところ、その裂傷は、骨までは徹(とお)ってはいないものだと思った。 「ああこれは馬丁のペーターだ」 この見知らぬ男は叫んだ。 「この男が彼の女の馬車を御して来たのですが、あの獣物(けだもの)連中は、この若者を引きずり降ろして、棍棒でやっつけたのだな。これはこのまま寝かしておきましょう。どうにも出来ませんから、――しかしまだ私たちは、彼の女の婦人として受ける、最大の悲しい運命から、救い出すことが出来るかもしれませんからね」 私たちは全く夢中で、樹の間をうねり曲って、小径をかけ下りた。そして私たちは、建物を取りまいている、灌木の所に出た時、ホームズは一同を引き止めた。 「奴等は家には入らない、そら左の方に足跡がある。これからずっと月桂樹の横の方に、――ああ、云わないこっちゃなかった、――」 彼がこう云う途端に、女の帛(きぬ)を裂くような悲叫(さけび)! 恐怖のために狂乱してしまった咽喉から絞り出た、血も吐くような女の悲叫(さけび)が、私たちの前方の籔のかげから聞こえて来た。それと共にその悲叫(さけび)は、最も高く絞り上げられたと思う中(うち)に、急に咽喉でも締められたのか、窒息するように止まってしまった。 「こっちです、こっちです! 奴等は玉ころがしの囲の中に居るんです」 籔を突進して突きぬけながら、この見知らぬ[#「見知らぬ」は底本では「見知らね」]男は叫んだ。 「おい卑怯な犬共め! さあ皆さん来て下さい、来て下さい。ああ遅れました。ああ遅かった、畜生め!」 私たちはヒョッコリと、大木に囲まれた中の、小さな芝生に出た。その芝生の向う側に、老樫樹のかげに、変な恰好の三人の者の姿を見止めた。その中の一人は、我々の依頼者の若い美しい女性で、口にはハンカチーフを巻きつけられ、全く気絶したように、正体もなく崩れ跼(うずく)まっていた。その向うには、残忍な、いかつい顔をした、赤髭の若い男が、ゲートルを巻いた脚を開いて突っ立ち、片方の肱は腰に曲げ、片方の手には、猟用の鞭を振り上げて、あたかも勝ちほこった馬鹿大将みたいに、意気軒昂としていた。それからその二人の間には、もう年配の、灰色の髭のある男が、スコッチ織の簡単な着物の上に、白い法衣を重ねて、今しも二人の結婚式がすんだばかりと云う様子をしていた。と云うのはその法衣の男は、私たちが現われた時ちょうど、祈祷書をポケットに入れて、その縁喜(えんぎ)でもない花婿の背中を、お芽出度(めでと)うとでも云ったように、ぽんとたたいたところであった。 「彼等は結婚したんだね」 私は喘ぎながら云った。 コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-30 02:34:39 +++++ その時ちょうど一人の自転車乗りが私たちの方に走って来たのであった。その者の頭は低く前にかけられ、肩は丸く下(さが)っていて、ペダルを一踏するごとに、一オンスずつのエネルギーが消耗するのだと云うような恰好であった、彼は競争者のように疾走して来たのであったが、突然髭のある顔を起して、私たちを近々と見つめた。そしてピタリっと車を引き止めて、自転車から飛び降りた。その漆黒の髭は、蒼白な顔色に、まことに変な対照でありまたその目は、熱病にでもつかれている者のように、キョロキョロとしていた。彼は私たちと馬車を、激しく見つめていたが、その顔にはみるみる、驚きの色が浮かんだ。 「おい止まれ!」 彼は自転車で、我々の行く先を遮りながら叫んだ。 「君達はこの馬車をどこから取って来たんだ? おい馬を止めないか!」 彼は無暗に喚きながら、ポケットからピストルを取り出した。 「おい、馬を止めてくれないか! さもなかったら、馬に一発ズドンとやってしまうぞ」 ホームズは私の膝の上に手綱を置いて、馬車から飛び降りた。 「君こそ僕たちが逢いたいと思っていた人間なんだ。ヴァイオレット・スミスさんはどこに居るんだね?」 彼一流の早口で、はっきりと云った。 「それこそこっちが聞きたいことなんだ。君たちこそ彼の女の馬車に乗っているから、君たちこそ知っているはずだ」 「いや、我々は道でこの馬車に逢ったんだが、中は空っぽだったんだ。それであの娘さんを助けようと思って、引き返してゆくところなのだ」 「ああ神様、神様、――私はどうすればいいのですか?」 この変な男は、全く失望のどん底に落っこったように悲叫した。 「いえそれではあの、地獄の犬めのウードレーと、あの悪漢坊主共が、彼の女を掠奪したのです。さあではこっちに来て下さい。もしあなた方は本当に、私の味方でしたら、こっちに来て僕を助けて下さい。もし僕がチァーリントンの森で必死の覚悟を決めたら、彼の女を救うことが出来ましょう」 彼は全く乱心したような様子で走り出した。そしてピストルを片手に持って生籬の切れ目に突進して行った。ホームズはすぐその後から続いた。それで私も、道の傍らに馬を放して草を食ませたまま、ホームズの後に従ってかけた。 「彼等はここから出て来たんです」 ![]() コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-29 02:34:20 +++++ 私たちが上り坂を越してからはもうその乗り物の姿は見えなかった。しかし私たちはどんどん道を急いだが、私の元来の運動不足の職業が、今はしみじみと身体に答えて、いや応なしに私は、ホームズからは遅れてしまった。しかしホームズは少しも弱る様子がなかった。日頃練成していた精力が、全く驚くばかりであった。彼の跳ね返るような歩調は、決して衰えなかったが、私から百碼(ヤード)ばかりも先んじて行った彼は、ふと立ち止まった。そして彼が手を上げてまわすのを見たが、それは悲しみと絶望の相図であった。と、――見る中(うち)に、空(から)な二輪馬車が、手綱を引きずりながら、カーブを曲ってガタガタと音させながら、私たちの方に駈けて来るのであった。 「遅かった、ワトソン君、遅かった!」 ホームズは叫んだ。私は喘ぎながら彼の側(そば)にかけ寄った。 「もう一つ早い汽車を考えなかったなんて、僕は何と云ううっかりしたことをしたものであろう! 誘拐されたんだ。ワトソン君、誘拐だ! 惨殺されたんだ! ああしかしまだ解らない! さあ道を塞いで馬を止めて。――さあそれでよい、すぐに乗りたまえ。一つこの失敗の取り返しが出来るかどうか、やれるだけやってみよう」 私たちは二輪馬車に乗った。 ホームズは馬首をまわして、ピシャリと一打ち鞭を当てて道を進んだ。カーブを廻ってからは例の廃院と荒野の間の、真直ぐな道が、我々の目の前に展開した。私はホームズの腕をぎゅっとつかんだ。 「ああ、あの男さ!」 私はせきこんで云った。 ![]() コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-28 02:34:03 +++++ ホームズは慎重な調子で云った。「これはあの娘さんの周囲には、何か深いたくらみがめぐらされているよ。あの娘さんの最後の帰り路を、無事に護ってやらなければならない。ワトソン君、今度の土曜日の朝は、一つ一緒に出かけて行って、この奇妙な、不得要領(ふとくようりょう)な事件を、見事に結末をつけてしまおうじゃないかね?」 私は正直のところ、この事件については、どちらかと云えば、危険性と云うよりも、変な得体の知れなさはあったが、しかし結局大したものではないと、この時までは考えていたのであった。あんな綺麗な娘さんに、男が待ち伏せをするとか、あるいは追っかけるとか云ったようなことも、もう世間一般から、云ってそう珍らしいとすべき話でもないし、またその待ち伏せの追っかけの男も、強いて娘さんに話しかけようとするでもなく、かえって娘さんの方から近づくと、遁げ出してしまうほどの小心者とすれば、まあ大した悪者でもあるまいと思った。なるほど暴漢のウードレーは、なかなかの注意人物に相違ないが、しかしこれも我々の美しい若い依頼者を困らせたのは、ただ一度だけで、その後はカラザースの家を訪問しても、彼の女の面前にも現われないとのこと、――それから例の自転車乗りの男も、居酒屋の主人のいわゆる、週末組の一員には相違ないが、しかしこの者も、一たいどう云う者で、何の目的であんなことをするかも、全く不得要領である。しかし私は、ホームズの態度がいかにも厳粛で、しかも出かける時にピストルまでもポケットにねじこんだので、これはとにかく、この変な事件の後にも、なかなかの惨劇も予想されているのだなと思った、のであった。 夜通しの雨が霽(は)れて、ここにも太陽の輝かしい朝であった。荒野に蔽われた田園は、今ちょうど満開のハリエニシダの花が、方々に叢(むらが)り咲いていて、ロンドンの暗褐色(あんかっしょく)黄褐色(こうかっしょく)、――石板灰色(せきばんかいしょく)に、あきあきしている目には、とても素晴らしいものに見えた。ホームズと私とは、朝の新鮮な空気を吸いこみ、小鳥の音楽、四月の春の生々(いきいき)とした黄韻(こういん)を享楽しながら、砂の多い広い道を進んだ。路は上りになって、クルックスベリーの丘の肩のところに行ったら、我々は老樫樹の中から屹立している、厳めしい廃院を見た。もっともこの老樫樹は、もう老いたと云っても、その取り囲んでいる廃院よりは若いのであるが、――ホームズは、褐色の荒野と、芽のふき出ている緑の森の間をうねっている、赤味を帯びた黄色の帯のような、一条の道路を指した。はるか遠方にポツリっと見えた黒い一点、――それは我々の方に進んで来る乗物であった。ホームズは思わずも叫んだ。 「おや、三十分おそかった! もしあれが、あの娘さんの馬車だとすれば、あの娘さんは一列車早く発つつもりだったんだね。ワトソン君、俺たちが娘さんに出逢う前に、あのチァーリントンの森にさしかかってしまったら大変なことになるよ」 ![]() コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-27 02:33:45 +++++ 「僕は先に君にも云った居酒屋を見つけて、そこへ入って、細密な調査を始めたわけさ。僕は酒売台(さけうりだい)に陣地を取ったわけだが、ところがそこの主人は大変な饒舌(おしゃべり)で、僕のききたいことは、何もかもよく喋べってくれた。ウィリアムソンと云うのは、真白な髭を蓄えた人間で、ごくわずかな使用人共と、あの廃院に住んでいるんだそうだ。彼が坊さんであったとか、またあるとかと云う噂もあるんだ。ところがその短い間の廃院生活に起った、一二の事件を見ると、どうも坊さんらしくないと思われる点があるんだがね。それで僕は宗務管理所について調べて来たんだが、これと同じ名前で、その以前の経歴がはなはだ曖昧なのが、たしかにあったと云うのだ。それからなおそこの主人の云ってくれたのには、あの廃院には、毎週の終りに、会合があるんだそうだ。「とても景気のいい人達ですよ、壇那、――」と主人は云うんだがね。そのメンバーの中で、赤髭をした、ウードレーと云うのが、最も重要な御常連だそうだ。ところがどうだろう、――こんな話をしている中(うち)に、人もあろうに件(くだん)の紳士が入って来て、酒場でビールを引っかけていたのだ。もちろんこの一切の会話をきいてしまったのだから敵わない、――「貴様は一たい何者だ?」「何を調べているんだ?」「何のためにそんなことを訊ねているんだ?」と、全く雷でも落っこって来たように、まくし立てられてしまったわけさ。いや全く実に威勢のいい文句ばかり並べられたがね、遂に彼からは手の甲で一撃見舞って来てしまったんだが、僕は不覚にもそれはしっかり受けそこなってしまった。次の二三分はとても味があったよ。滅茶打ちに打ってかかる暴漢に、左の手で見事に一突がきまったわけさ。そして僕は抜け出して、再び君に拝顔の機を得たわけ、それからウードレー紳士は、馬車で御帰宅と云うことになったのさ。こうして僕の田舎旅も終ったが、なかなか面白いには面白かったが、しかし何しろいやはや全く、このサーレーの外れの遠征だけは、君の時よりももっと、だらしのない恰好でおめおめと帰って来たわけさ、ははははははは」 木曜日にまた、我々の依頼者から、手紙が来た。 ホームズ先生、私がカラザースさまのところから、お暇をいただいて、帰ってしまうとおききになりましても、決してお驚きなさいませぬように、――(と彼の女は申します)あんなに高い月給でも、やはり私の現在の位置の不愉快さは、埋め合せてはくれませぬ。土曜日に私はロンドンに帰り、もうこっちには来ないつもりでございます。カラザースさまは、馬車をお買いになりましたので、あの淋しい道の危険は、たとえば御座いましたものにしろ、今はもうそれも何でもないことになってしまいました。 私がこちらを去ることになりました理由としては、ただカラザースさまとの間が、緊迫して来たためばかりではなく、その他にもう一つ、あのいやなウードレーが、また出て来たからでございます。あの方は素々(もともと)から、凄い容子をしていますが、今度はまたもっと怖ろしい形相をしているように思われます。それに何か出来ごとでもあったのか、大変傷がついております。私は窓の外にあの人を見かけたのですが、しかし逢わずにすまされたのは、何よりの幸福でございました。何かカラザースさまと、大変長いこと、話していたようでしたが、後でカラザースさまは、ひどく昂奮していらっしゃいました。ウードレーはきっと、この近所に居るに相違ございませぬ。と申すのは、昨夜はこちらには宿(とま)りませんでしたし、それに今朝は私は、あの人が灌木の中を忍び歩いているのを見止めたのでございます。やがてはあの野蛮な怖ろしい野獣が、檻を出てのそのそとやって来るのでございましょう、――もう私は考えただけでも、身振いをするように怖ろしゅうございますわ。あのカラザースさまでも、どうしてあんな気味の悪い動物にちょっとでも御我慢のお出来になるはずがございましょう。しかししかし、もう私の煩累(わずらい)は、この土曜日で終りでございますわ。 「ははあ、ワトソン君、――」 コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-26 02:33:16 +++++ 「この事件は、最初に僕が考えたよりも、もっと興味があって、また面白く発展してゆくらしいぞ。僕も田舎の静かな、平和な日のために、一臂(いちぴ)の力を添えてやっても、毒にもなるまいから、――今日は一つ午後から出かけて行って、考えた理論を二つ三つやってみるとするかな」 しかしホームズの田舎における静穏な日と云うのは全く変な結末を見せたのであった。と云うのは彼は、夜おそくベーカー街に帰って来たのであったが、彼は唇には怪我をし、額には色の変った瘤を出かして云わば警視庁のお探ねものにもふさわしい、あのいつもの捕り手となる、放埓者(ほうらつもの)のような恰好をしていた。そして彼は自分の今日一日の冒険に、ひどく可笑しさを感じていたのか、底の底から笑いながら、一切の顛末(てんまつ)を語り出した。 「僕は少しばかり活溌な運動をやって来たんだが、いやはや全く、御馳走さまなことさ!」 彼は云った。 「君、僕は御承知の通り、英国のあの結構な古来の拳闘については、少しばかり心得があるんだが、君、あれは時々、とても役に立つ時があるよ。例えば今日なども、もし僕があの心得がなかったら、全くいいざまを見るところだったよ」 一たい何が起ったのか私は更に追求した。 ![]() コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-25 02:32:59 +++++ 「いや、ワトソン君、――君はまずその、隠れ場所が第一に間違ってるよ」 彼は云った。 「そりゃ君は、生籬の蔭にかくれるべきだった。そうすればその目的の人物を間近くで見ることが出来たわけじゃないかね。君も何百碼(ヤード)と云うものを離れて見たので、あの娘さんのスミス嬢以下の報告っきり出来ないじゃないか、あの女は自分が知らない者だろうと云っていたが、しかし僕の見るところでは、あの女が知っている者に相違ないと思うのだ。だってもしそうでないとしたら、何もあの女が接近するのを、そんなに一生懸命で遁げる必要はないと思うからね。[#「。」は底本では欠落]君はその者がハンドルの上に身をこごめたと云うが、それもすなわち、顔をかくしたのだろう。君は全く徹頭徹尾間違ったよ。その者は家に帰り、君はその者の正体をつき止めようとして、ロンドンの、貸家の差配人のところに来る、――」 「じゃ僕は、どうすればよかったのだね?」 私はちょっと逆上(のぼ)せ気味になって叫んだ。 「そりゃ近所の居酒屋にとびこむのさ。そこはその地方の噂(ゴシップ)の中心だ。そこに集(あつま)ってる者共は君に主人から食器洗いの者までの名前を教えてくれるだろう。そうウィリアムソンと云ったね! しかしこの名前は、僕にも何の心当りもないな。しかしそれがもう相当の年配とすれば、あの活溌な若い自転車嬢さんに追跡されて、霞をくらって遁げた、素ばしっこい男なはずはないね。さてこうなってみると、君の御苦労な遠征で得たものは何んだろうね? なるほどあの娘さんの云ったことは逐一事実であると云うことはわかった。それから自転車乗りと、廃院とには何等かの関係のあること、廃院はウィリアムソンと云うものが借りたこと、――この二つはまあ僕も決して疑わないが、――まあ大変なお手柄だが、――ちょっとこれだけのことには誰も及びのつかないことだね。まあ、まあ、わが敬愛する貴君――そう力を落としたもうな。次の土曜日までは、じっと日和を見て、その中(うち)には、僕自身でも一つ二つ手をかけてみるから、――」 次の朝私たちは、スミス嬢から一通の手紙を受け取った。その中には、私が昨日目撃した事件を、正確に短文の中に要領よく書いてあった。しかし手紙の要旨は、追伸として末尾にかかれてあった。 ホームズ先生、あなたは私の秘密を、お護り下さる御方(おんかた)と存じますが、私は、最近私の主人から求婚されて、ここでの私の立場は、非常に難しいものになって来たと云うことをお知らせいたします。私はあの人の感情は、最も深く最も尊敬すべきものだと信じています、もちろんそれと同時に、私の約束も与えられることです。あの人は私の拒絶を、非常に重大にとりまた非常に素直にも考えております。いずれ局面が少し緊張して来たことを御想像下さいまし。 「あの娘さんは、段々に深みにはまってゆくらしいな、――」 ホームズは手紙を読み終ってから、考え深そうに云った。 コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-24 02:32:35 +++++ 荒蕪地(こうぶち)の方はハリエニシダの花が満開中で、四月の太陽を受けて、黄金色に燦爛(さんらん)としていた。私はその一つの茂みのかげの、道路の両端と、廃院の門とがよく見える位置に身をひそめた。私が道路から横に入った時は、道路には何も見えなかったが、今は私が来た方向とは反対の方から、一人の自転車に乗った者の姿が現われた。その者は灰黒色の着物を着て、黒い髭を蓄えているように思われたが、チァーリントンの区域内に入って来ると、その者は自転車から降りて、生籬の間隙から忍び込んで、その影は見えなくなってしまった。 それから十五分ばかり経ったら、また別の自転車乗りの姿が現われた。今度のは例の娘さんが、停車場から来たのであった。チァーリントンの生籬のところまで来ると、彼の女は周囲を振返って見ているのが見えた。それからちょっとおくれて、生籬の間から、先の者が忍び出て、自転車に乗って彼の女を追っかけ始めたのであった。一望開豁(いちぼうかいかつ)な荒野の中に、一方は自転車の上に、すっとその美しいフォームを立ててゆく若い美しい女性、一方はハンドルの上に低く身体をこごめて、これを追っかけてゆく、――何かしら意味のありそうな、好奇心をそそらせる一場の活劇場の光景であった。彼の女は途中で振り返って、その男を見ながら、速力をゆるめた。そうするとその男もやはり速力をゆるめた。彼の女はピタリと止まった。その男もすぐに止まって、二百碼(ヤード)ばかりの間隔を保った。その次の彼の女の行動は、全く思いも設けぬ敏(すば)しっこさであった。彼の女はクルリっと自転車をまわすと、一目散にその男の方に突進して行った。しかしこれを見たその男もまた、彼の女以上に駿敏であった。やはり自転車を返して、死に物狂いの全速力で遁げ出した。今は彼の女もまた引き返した。そして意気揚々と、自転車の上に反り返って、もう唖の従者には、一瞥も与えぬと云うように、昂然としてまた道を行くのであった。そうするとまたその男も引き返して、やはり二百碼(ヤード)ばかりの間隔で、二人の姿はその先の曲り角から、私には見えなくなってしまった。 それからなお私は、その隠れ場にひそんでいたが、それはとてもいいことであった。その中(うち)に例の男は、ゆるやかに踏みながら、また自転車で引き返して来たのであった。それからその者は廃院の門から入って、自転車から降りた。ちょっとの間その者は立っていたが、それはネクタイを結び直しているのらしかった。それからまた自転車に乗って、廃院の方に進んで行った。私は荒蕪地を走り抜けて、木の間を通してそれを覗いた。はるか遠くに私は、チュードル[#「チュードル」は底本では「チスードル」]風の煙突の屹立している、古い灰色の建物をチラチラと見たが、しかしその自転車乗りの姿は、濃い灌木の蔭になってしまって、もう見ることは出来なかった。 けれども私は、とてもいい朝の仕事を、一つ仕終ったと思って、意気揚々として、ファーナムの停車場に引き返した。この地方の建物の差配人は、チューリントン廃院のことについては、何も語ってはくれず、私にポール遊園地の、よく知られている、組合管理所を教えてくれた。それで私は帰り道に、序(ついで)に立ち寄ったのであったが、そこの管理人は、非常に鄭重に応対してくれた。そのチューリントン廃院と云うのは、この夏はもう契約ずみであった。私はもうおそかった。一ヶ月ばかり前に、貸付の契約は出来てしまっていた。ウィリアムソンと云うのが、その借り主だと云うことであったが、それはなかなか尊敬するに足る、もう年長の老紳士だと云うのであった。鄭重な管理人にもう、何も云うことはないので、ひどく困った様子をしていたが、たしかにこのお客様の要件と云うのは、その管理者にとって、口にしがたいことには相違ないことであった。 その夜私は、これだけの長い報告を、シャーロック・ホームズ君のところに齎(もたら)した。私は大変価値ある、そして多少の賞讃さえも、期待したことであったが、しかしそうした言葉は彼の口からは出て来なかった。それどころか、彼が私のやって来たこと、気がつかずに来たことに対する批評の時は、彼の峻厳な顔は、いよいよ嶮(けわ)しく変ってしまった。 コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-23 02:32:14 +++++ 「そうだ。我々はまず、チァーリントンの廃院に、どんな者が住み込んでいるか、それを探り出さなければならない。それからカラザースとウードレーの関係を調べてみなければならない。この二人はどうもとても性質が相背馳(あいはいち)しているようだからね。それからこの二人がどうして、ラルフ・スミスの親類に、熱心に注目するようになったか? それから更にもう一つは、女家庭教師に普通の二倍もの給料を払いながら、停車場まで六哩(まいる)もあると云うのに、馬一頭飼ってないと云うのは、一たいどう云う家政なのだろうね? ワトソン君、これはおかしいよ。これはどうしたっておかしいよ」 「君はしかし出かけるだろう?」 「いや相棒君、君が出かけてみてくれたまえ。これは案外つまらないものかもしれないし、僕はこのために、他の重大なものを、中絶させることは出来ないのだ。月曜日に早く、ファーナムに行って、チァーリントンの森の中に、隠れていてごらん。そうしたらいずれ君は事実を目撃するだろうが、その時君の独断専行で、善処してみるさ。それから廃院の住人たちを調べて来てくれること、――これだけをやって来てもらえば、大(おおい)に助かるんだがね。そしてワトソン君、――あとはもうこの問題の解決の、牢固(ろうこ)たる足がかりを得るまでは、何にも云わないことにするよ」 私たちは、あの娘さんから、月曜日の午前九時五十分の汽車で、ウォーターローの停車場を発って行くときかされていたので、私は早く出かけて、午前九時十三分の汽車に乗った。 ファーナムの停車場に着いてからは、私は別に迷いもしないで、すぐにチァーリントンの森に行くことが出来た。それから例の娘さんの、受難の地も決して見紛うようなところではなかった。道は広い荒原を通っていて、一方には荒野原、他方には巨木の林立した、公園を取り囲んだ、水松(いちい)の生籬(いけがき)のあるところ、――そこには苔むした石でたたまれ、両側には紋章のついた柱の立っている正門があった。しかしこの車道の外(ほか)に、生籬に破れたところがあって、そこからも小径が通っているのだと云うことは、種々の点から私は気がついた。建物は道路から見えたが、その周囲の様子から考えると、だいぶ荒廃している感じであった。 コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-22 02:31:48 +++++ 「その後でしたらあの怖ろしいウードレーでございます。まあもしあの男もそうだとお思いになるならでございますが、――」 「その他にはありませんか、――その他には?」 この美しい若い依頼者は、ちょっと困った形であった。 「いや、それではあの人はどんな人ですかね?」 ホームズは訊ねた。 「ああ、――でもこれはただ私だけの想像なんでございますけれど、私にはあの主人のカラザースさんは、とても興味を持っていると思われることが時々ございましたわ。私たちは、全く開けっ放しで、夜は私はあの方の伴奏を弾きました。もちろんしかし彼はいつも、何にも云いませんでした。彼はたしかに立派な紳士ですがしかし、女の心と云うものは、いつもよく解っているものでございます」 「ははあ!」 ホームズは真面目な表情をした。 「生計の方はどうして立てているのですか?」 「あの人はお金持ちですもの」 「馬車や馬は持っていませんか?」 「ええ、しかし何しろとてもいい生活でございますよ。あの方は毎週二三度はロンドンに出ますが、何でも南アフリカの採金地の株に、非常に興味を持っているようでございますわ」 「それではスミスさん、いずれこの上にも変ったことがありましたら、また入らして下さい。私は実は今は非常に忙(せ)わしいのですが、しかしいずれその中(うち)にあなたの御依頼のことにも、研究を進めてみましょう。しかしこの間に、私に断りなしに、事を進めてはいけませんぞ。ではさようなら、――あなたから吉報が来るようにいのっていますよ」 「あんな美しい娘さんを追いまわすと云うことは、あまりに自然の命ずるままのいたずらだ」 ホームズは彼の静思の時の、パイプを取り上げながら云った。 「寂しい田舎道までを、自転車などに乗って歩かなければいいものをね。まあいずれ誰か、人知れず懸想している者も、あるには相違ないが、しかしこの事件には、ちょっと奇妙な、暗示的な変な性質が潜んでいるように思われるよ、ワトソン君、――」 「と云うのは、その者は同一の場所にだけ現われると云うためにかね?」 コメント(0)| Track back(0) | 2005-09-21 02:30:44 +++++
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